今回の掲載内容について
私たちのほうからAさんにこの間の思いを書いてほしいとお願いしたところ、Aさんにこの間約1年の思いを綴っていただくことができました。
ということで、今回と次回の2回にわたってAさんの思いを掲載したいと思います。
(※見出しや文中の注意書き等は、Aさんの承諾をいただきセンタースタッフが付け足しました。)
また、X病院として掲載してきました高志リハビリテーション病院の野村忠雄先生にコメントをいただくことができましたので掲載させていただきます。
Aさんの思い:この1年を振り返って
<二次障害??何のことだか分からない。>
自立生活支援センター富山の機関誌『遊ぼうよ』の《脳性麻痺の二次障害を考える》で連載化されていることは、私のことです。
自分が《脳性麻痺》という障害名でありながら、その病状すら分からないのにはっきり言いまして《二次障害》についても何なのかも分かっていませんでした。
何年前から右肩は痛み始めてきてはいたものの、「疲れ」だとしか感じていませんでした。
<自宅前での転倒・入院・友だちの支え>
近年、階段を踏み外しひどい出血をして気絶をしていて、その日中学時代の後輩より携帯電話の方へ1本の電話が入り、バイブにしていたのが幸いしたのか、気がつくと生暖かいものが流れていて手で触れてみると赤いではないですか。相手は自分との再会を子供たちと喜んでいたと声がしました。そこへ自分が「階段を踏み外し転んで血が流れている」と言うと、「今から電話して、うちのもの(妻)に向かわせるから、病院に行ってこられ。」と言ってくれたのがとてもうれしかったです。しばらくしてから迎えに来てくれました。
当時自分が住んでいたアパートから近い救急指定病院と言うことで、Y病院に自家用車にて乗せて行ってもらい手続きもしていただき、けがの程度を医療のほうで判断をされ即治療をしなければならないとのことでストレッチャーにて治療室へと運ばれました。
そのときの診断によると、血液中に髄液が混ざっていてその髄液が半分出ていることでしばらくは安静入院ということでした。予定では1週間と言われ、後輩も手続き上どうしても出来ないからと、『同じところで育ったんで1週間だけ』ということで、そちらにお願いをしてくるからと言ってサインをしてきてくれたのです。1週間と言うのに伸ばされそうになり、退院の意思を伝えて退院をして自宅で1ヶ月療養していました。
<右足の引きずり・・・不安>
昨年(2004年※原稿執筆時は2005年)には、訳分からずに右足を引きずることが多くなり、転倒することもしばしばあり、「疲れているのであろう」と思っていました。
しかし、状況が悪化していく一方で、ある病院へ行き受診を受けたところ「筋肉の低下ではないだろうか、それでも心配ならば脳神経内科の専門病院へ行ってきてはどうか。」と言われて、当時住んでいた近くのY病院へ行き脳神経内科へ受診しました。
そのとき、ドクターは「腰には異常はなく、筋力の低下ではないのかなぁ。」と同じことを言われ、不思議に思いました。なぜならば筋力の低下であれば、屈伸(足を伸ばしたり曲げたりすること)運動は出来ないのでは、出来ているし右足が引きずる様になった事は大きなショックでした。
<自立生活支援センター富山へ相談>
そこである経験者に相談をしたところ、『それ、脳性麻痺二次障害じゃないのかなぁ』と言われましても、自分としては「???」。そんな話を聞いてパニックであったのが正直な話しです。
「専門に扱っているドクターを知っているから」ということもあり、予約電話をしていただき、「今後の参考に知っておきたいと言う事で、紹介していただき同行(付き添い)していただいたことは感謝しています。
<予期せぬ緊急入院>
予想もせぬ早い入院。クリスマスを明日に向かえ、前日に車椅子に乗っていて予期せぬ事態で車椅子ごと後転、その日は何事もなく時が過ぎていきました。
一晩眠り、目がさめてみると「首が痛い」
午前中の予定も終えて家のほうに帰り、昼も済ませられず、肩こりのような痛み、背中の痛みが増してきて担当医・関係者の人たちに相談をしましたところ、担当医からは「すぐに病院に来てちょうだい、入院の準備をして来て、来なかったら手遅れになるよ。」と言われ、自立生活支援センター富山に連絡を取り合い、入院の準備も手伝ってもらい病院に行きました。
<予定丸つぶれ クリスマスもお正月も病院かぁ…。>
事情を聞かれ、レントゲン撮影を終え検査も終えてから、わたし:「クリスマスケーキ食べられなくなっちゃった。これではクルシミマスルです。」と冗談を言ってしまいました。(自分の中では入院への不安が先に出てしまったのです。)クリスマスをみんなで楽しみ年賀状も出してないし、来年(2005年)の元旦に初詣を済ませてからの入院だったはずなのに残念。
センター:「何言ってるの、そんなことよりも身体のことを心配しられ」と会話をしていました。
看護師さん:「Aさんご一行様」と診察室に呼ばれました。
レントゲンフイルムを見て説明を聞いてみると、
主治医:「首の脊髄の打撲だわ。見ていてね。脊髄はまっすぐになっているのが普通なのですが、ここね、骨と骨の間ですが後ろに脊髄が反り返っているのが見えるでしょう。」
わたし、センター:「確かに」
主治医:「これが骨から飛び出したいたり、折れてしまっていたら、頚椎損傷で首から下は完全麻痺になっていたかもしれない。だから、転んではいけないとあれだけ言ったのに・・(苦笑)入院中は完全にベッド安静だよ。」と言われて、病棟・病室の方に案内されて病衣に着替え、管を入れられて、首が曲がらないように首カラーで固定されて、点滴もうたれて、「安静かョ」と思ったらショックでした。
Y病院への入院までとはいえども、正月はこの病院で過ごすのかと思うとガックリ。
連絡の取れるところは連絡をとっていただいたおかげで、毎日のように交代で訪問者がありましたことを感謝しています。
官公庁でいうところの仕事納めの日には、検査がありストレッチャーに乗せられて検査へ向かうときに、センター「時期遅れだけれどもクリスマスケーキ持って来たよ」
と言われ感激をして、思わず泣きそうになりました。
<お正月のひとコマ>
看護師さんから「Aさん、Aさんのところへは何人の方が面会にこられるでしょうか。
〈???〉」と聞かれて、
わたし:「?何人だろう。」
看護師さん:「今までの中では、こんなに大勢の方が面会にこられるのはあまり見かけたことはないですよ。」と話しかけられたこともありました。
お正月には、皆さんが「お正月気分を味わっていただこう。」と言って正月飾りを飾っていかれました。(ありがとうございました。)
看護師さん:「Aさんところ素晴らしい飾り物で一杯になっちゃって、こんなの初めてじゃないの」と言われて思わず、替え歌を歌いました。
(♪ 行きは軽いが、帰りは重い、重いながらも帰れるは、家に_)
看護師さん:「なに馬鹿なこと言ってるの、それは普通の人、あなたの場合は転院でしょう。どうするのこの荷物?」
わたし:「あ、そうだった(笑い)<困っちゃった。>転院だった。」
<1度目の手術へ― Y病院への転院>
お正月明け。付き添いの方が4人来られ、予期せぬ入院だったX病院。
今日が本当の入院の日Y病院へ向かう
手術の予定日は、昨年Y病院に受診に来たとき、言われていたのでもう後戻りは出来ないと決めていました。
そのためにお正月明けの今日まで延期していただいたのに・・・。
センターの方々が何度か足を運ばれ、自分が入院をしていて心細いと思い来ていただいている事が、なんだか勇気づけられました。(感謝の気持ちでいっぱいです。)
< Y病院での手術を受けるにあたって>
入院翌日に、ボトックス注射(本来は顔面神経痛や、頭部への神経痛の方に使用されるものだそうですが、首から肩にかけてからの筋肉の緊張、脳性麻痺本来の持つ症状とされているアテトーゼ〈本人が意識はしていない筋肉の伸縮すること。〉が出ないように。アテトーゼが出ると手術に支障がきたすおそれがあるので。)で首の不随運動を緩和させ、手術に入りたいと言うことで、注射を6箇所うたれました。
どんなに痛かったであろうか、看護師さん2人がかりで体が動かないようにと押さえてもらっていました。
P.T.(理学療法)、O.T.(作業療法)を受けながら手術の日を待っていました。
<保証人問題の壁>
その中で問題がひとつ生じてきたのです。
手術の書類記入欄で保証人(手術の同意人)をどうするかでした。
自分の中では『信頼の出来る方』(※児童養護施設の園長先生)と思い、手続きをしていただいた方々にお願いをいたしまして、直接その方に会ってきていただきましたが、断られました。理由は予想していましたが、「歳が歳だから、他の人に当たってみてください。」と言われました。
第2に頼めるとすれば、
わたし:「もう何十年も会っていない親戚がいまして。」と言うと、
センター:「そちらにお願いしてきてよろしんですよね。」と言われたので、
わたし:「お願いいたします。」と答えました。
実に困った問題であることは間違いではありません。どこへ行こうが避けて通ることの出来ない問題です。だとしたら、どうすればよいのか悩んでしまうんだよな。
Y病院主治医:「ボトックスも効き目がもう少し効いてくれば手術できるのだけれど、手術をもう1週間伸ばすから。」と言うことで、それまでに保証人(手術の同意人)のほうが決まってほしいとベッドの上で願うことしか出来ませんでした。
手術の日程が予定より1週間伸びたのが幸いしたのか、親戚の叔父さんに引き受けていただくことができました。
<自分が納得するまでやってみろや!>
手術2日前には手術説明会がありました。
Y病院主治医:「手術をするのは頚椎で首・背中・腰の骨はドーナツ状になっていてその中心を脊髄が走っている。今手術をするのは首の骨、3番目から6番目の骨を削りドーナツ状を広げる手術で、朝8時30分には手術室に入ってもらって、手術開始は9時30分から10時ごろになります。終わるのは約3時間30分後の午後1時30分ごろを予定になるでしょう。」と聞いていました。
その場で、はっきりと叔父さんから言われたことで気持ちがさっぱりいたしました。
「自分が納得するまでやってみろや!」
この一言、この一言が本来の生き方ではないのかなぁと感じました。
<手術の日~Y病院での1度目の手術>
手術の日。入院してから3週間ちょっと過ぎ、いよいよ手術かと思いました。
ただ、右足が動かなくなったことが治ればまた普段どおりの生活が出来、会社へも復帰する事が出来ることを願っていました。
手術のため朝食は食べられない、便をトイレで済ませ手術室に向かう病衣に着替えベッド移動で、朝1番に手術室に向かった。病棟の看護師長さんに見送られ元気よく「行ってきます。」と挨拶をして、担当の看護師さんと付き添いの方々とエレベータに乗り、
センター:「退院したら皆で、退院祝いをしましょうよ、Aさんの行きつけのそのお店へつれって行ってよ」と緊張を解してくれているような会話でした。
手術室に入る前に、
わたし:「じゃ、行ってくるね」
センター「病棟のほうで待っているから心配しないで良いよ」とテレビドラマでよく目にする光景。
手術室に入っていき、手術をする箇所が首の後ろ、(頭部の付け根から首の全体ということで)下部以外は裸、手術室専用ストレチャーに乗り換えられ、
看護師さん:「今日の1番ですので、一番奥の部屋へ行きます。」と言われて、手術をする部屋に着き名前を確認されてから「麻酔科のドクターです。はい、今から麻酔をかけますので。」と言われた直後、昨夜は「明日、手術か」と思ったら眠れずにいた、その睡魔がやってきたことで眠りに入りました。
<手術中にみた夢>
手術を受けている間に見ていた夢は、一人暮らしを始めたころの夢でした。
職探しをして、就職が決まり通勤をしている自分が居る。勤務を終え夕食の買い物・時間があったら喫茶店へ行き、この期間に出会った人たちとのコーヒータイム、『皆さんありがとう』就職祝い、『皆さん待っていてください。』と言う夢で目が覚めました。
<麻酔から目覚めたら…>
手術を終え、病室に着いたとき自分に支援してくださる方の人数の多さに驚かされました。
わたし:「きゃ、なんちゅう多くの人が集まってくれたがん、ありがとう。」と心の中でささやくことしか出来なかった。手術のときの麻酔の余韻かはわからないけど、うとうととしか記憶にはない。ただ覚えていることは、酸素マスクが邪魔くさくなり手で撥ねよけようとして、「だめだなか」と言われたことと、喉が渇いてきて
わたし:「水がほしい」と言ったことは覚えていました。酸素マスク越しではあったが、手術直後の水分補給はだめらしく、また眠りにつくと同時に皆さんが安心された様子で帰っていかれたようです。
<X病院に転院~先生、看護師さんからのエール>
Y病院でお世話になった看護師さんたちに挨拶をしていたら、歳のせいかどうだかわからないけれども目頭が熱くなってきました。前日には、担当の看護師さんは夜勤でそのときには挨拶を済ませると、
看護師さん:「向こうに行っても頑張るがんだよ!」とエールを送られて、主治医にも挨拶をすると
Y病院主治医:「これからも頑張るんだぞ、向こうのドクターにもよろしく言っておいて。」とエールを送られました。
その余韻なのか?ナースセンターよりエレベーターに向かうとき看護師長さんに、
わたし:「ありがとうございました。」と言うと、看護師長さんはじめ皆さんから
看護師長さん:「向こうに行っても頑張るがんだよ」
とエールをいただき、病棟エレベーターの前にて、看護師長さんと2・3人の看護師さんに笑顔で見送られました。
Y病院を退院して、X病院に向かう車中で「向こうへ行って治すものは治して、元気になった姿をまたY病院でお世話になった看護師さんたちY病院の主治医に挨拶をするために行きたい。」と思いました。
<症状の悪化…>
1回目の手術のときと同様で、手術の同意人のことで自分の中でつまずいていました。
と同時で、口ではなるようになるしかないよ(笑い)といっても、やっぱり手術をするという恐ろしさに何も言えませんでした。
わたし:「もうしばらく待っていただけないでしょうか。」死ぬんなら今のうちにやり残した事をやっておきたいし、友達の顔も見ておきたい。
主治医:「じゃあ、いつまで待てば良いのか?」
わたし:「もう2ヶ月」。
主治医:「1週間じゃ駄目か、向こうのドクターにも言われているかもしれないけれどこれ以上待てないんだぞ。向こうから入院してほしいと言われてもう2週間も待ってもらっているんだぞ。」
わたし:「1ヶ月」
主治医:「2週間じゃ駄目か」。
わたし:「じゃあ、分かりました、2週間、それも家に帰ってよろしいでしょうか。」
主治医:「家に帰ってどうするんだ?」
わたし:「友達に会ったり、身辺整理・心の整理をしたいんです。」
主治医:「じゃあ、それで良いんだな。2週間だけだぞ。それ以上は待てないんだぞ。向こうのドクターにも報告をしておくから。」
<自宅に帰られる!!>
X病院退院の日
やっと家に帰れるんだ!。2週間と言う限定つきだが家での生活できるんだ。帰りの車の中で思いました。
「ちょっと待てよ?これじゃ親父と同じことをしているのではないか。」
【自分の父親は、自分が4歳のときに亡くなっている。亡くなるその何年前かに病院に入院、入院中に、祖母の家での餅つきがあり、そののために、自分との思い出をひとつでも多く創っておきたかったのでしょう。無断外出をしてきてくれた記憶はあります。】
「親父の顔は覚えてはいないけど、まぁ親父とは違って自分は自分なりの生き方をしていけば良いか。」と心の中のつぶやきでした。
<待ちに待った自宅での生活>
小学時代の同級生が来て
友だち:「どうながんよ!」
わたし:「どんながんよって、今手も足も麻痺が進行してきていることで、今度Z病院に入院することになった。どうせさァ、失うものなんてなんもないからさ、生きて帰ってこればさ、これから築き上げていけばいいんだからさ。後ろを見ても何も残っとらんからいいがんだちゃ。」
友だち:「お前も、昔からその性格変わっとらんのー。何時でもそうだねけよ、前しか向いとらんし前しか観とらん。たまには横も観れま。」
それを言われたら何もいえなくなりました。
ヘルパーさんにも入ってもらい、またボランティアさんにも入ってもらいながらも2週間が過ぎようとしていた。
<2度目の手術直前の退院祝い>
退院祝い(X病院の)だぁと思うと心が躍っていました。
しかし、退院祝いの日にZ病院への入院の日時の連絡をもらい、退院祝いの席にて
わたし:「今日、こういう席を開いていただき、ありがとうございます。しかしながら、Z病院への入院の日時が今日連絡をいただきましたので、退院祝いじゃなく陣中見舞いと言うことでお願いいたします。」と言うと、店のマスターが
マスターさん:「そう言わんと一度退院したんだから退院祝いと言うことで。」とその場を盛り上げていただいたことに感謝しています。
<Z病院へ向かう朝~ヘルパーさんのやさしさ>
X病院を退院をしましてから出会った人が、自分がZ病院へ入院と今度の手術のことで話をしていました。後日その人が「私達はどう応えてあげられるか分からないけど、私に出来る精一杯の気持ちです。」と手渡されたのは、『お守り』涅槃団子(仏教で:お釈迦様の頭を代用とされお寺ではお釈迦様が永眠されたと想われる2月28日に奉納をされ、一般の参拝者にばら撒かれる。)で作られた〔亀さん〕でした。(亀のように一歩一歩大地を踏みしめてあせらずマイペースでと言う気持ちかな。)そのときほど嬉し涙があふれ出てきたことはありませんでした。
Z病院へ出発する時刻には「またここへ帰って来るんだよ!」と見送られました。
感謝の涙が止まらない。
<Z病院へ向かう道中にて…>
Z病院は県外であったために付き添いは2人で、病院へ向かう途中昼食を済ませることで一致しました。
センター:「入院をしたらしばらくは贅沢は出来ないんだから食べたいものは?」と聞かれて、とっさに出た言葉は、
わたし:「ハンバーグ 肉のね、それかラーメン」。しばらく車を走らせるとファミリーレストランが見えてきた、そこの名前を聞いて、
わたし:「そういえば自分の自立生活をする打ち合わせ場所にしていたチェーン店ですね。」
センター:「そう言われればそんなことあったね。なつかしー」
わたし:「じゃあ、ここにしよう。」入院をするという緊張を取りほぐしてくれる一時の場でした。
昼食をとりながら会話をしていくうちに、
わたし:「実は、何日か後に自分の誕生日なんです。そう言えば付き添ってくれている運転手も同じ日が誕生日なんですよ。」ということで会話が弾みました。
時が進み病院へ行く時間となった。そのときに時が止まってしまえばよかったことであろうか。
記:K
続きは、次回に掲載したいと思います。