センターとしての総括:④当センターとしてのとらえ返し
<どこまで関わればいいの?…格闘、批判>
 常に事態の方が先に進行していく中で、「支援」というものが後からついて行ってしまいました。スタッフの中でもいろいろと格闘がありました。
 どこまで自分たちはかかわるのか、どこまですればいいんだろうと。
 委託事業という中で、どこまで委託されているのか…。

 「病院の入院の保証人や同意人は、責任持てるんか」といういろんな関係機関や個人の人からの声、
 「そこまで、私は関われない」
 「そこまでやらなくてもいいんじゃないの」という意見まであり、センター関係者からは「行政の肩代わりをしている」という批判まで浴びせられながら、この1年間取り組んできました。

<地域で生きていきたい気持ちが分かるからこそ!>

私たちセンタースタッフは、なぜこの1年間を取り組んできたのかについて考えれば、とりわけスタッフ2人が障害者で小さい頃から施設で育ち、そして地域で生きていくことの辛さやしんどさを知っていたから。それでも、「地域の中で生きていくことの大切さ」を身を持って感じ、生き抜いてきたからこそやれたのだと思っています。
 また、今回のAさんのことは私たちスタッフにとっても人事ではないのです。自分が同じような状況におかれた場合、私だったらどうするだろう…そんな気持ちがあったのもあります。

<保証人・同意人のお願いにAさんが行けなかった。>
 入院の保証人および手術の第1同意人になって下さった親戚のおじさんであるBさんや、最初に保証人および同意人の依頼させていただいた児童養護施設の園長先生へのお願いにあがる際に、Aさんは同席していませんでした。
 時間的制約とAさんが緊急入院していたとはいえ、親戚や園長先生などへのお願いにAさん自身がいなかったことというのはマイナス点ではあります。原則としては、自分のことなんだから自分が行くのは当然です。でも、この状況を自分のこととして考えたときにはどうでしょうか。20年余りの空白にも関わらず、とても大きな重荷を背負ってもらわないといけないお願い。20年の空白の中には当人同士にしか分からないこともあったのだと思います。
 そういう意味でも、第3者が入ることで頼まれる方も冷静に話しを聞くことができたり、考えることができると思うのです。

<Aさんともっと早く向かい合うべきだったのか>
Aさんに身内の方がいないことは、出会った頃に教えていただいていました。とはいえ、そのことについて今まで話しあうことはありませんでした。今回の事態になる前にも何度か転倒され、数日入院されたこともありました。今思えば、この時にでも保証人の問題はあった訳で、その時にこそ話しあう機会だったのかもしれません。

<支援ってなんだろう>
また、委託事業か制度があるかないか、法律がどうなのかではないと思います。1人の障害者、ましてや身内のいない障害者がそうした中で語られること自体、本人の意思の尊重などあり得ないし、人権が置き去りにされてしまわないだろうか。
 Aさんの「地域で住んで、もう一度働きたい」という思いを、私たちがどのように受け止めていくかであり、そのことを私たちが実現するのではなく、Aさん自身が実現に向かっていけるようにすることではないだろうか。

 「支援」ということばが良いかどうかではなく、私たちはAさんの思いを受け止めて、いろんな人たちとこのような形で1年間関わりながらやってきましたということ。  そして、Aさんが退院して自分の思いに向かって地域生活が始まったことを最後にこの間の報告とさせて頂きます。

 Aさんのことに関して、相談させていただいた皆様・具体的に関わっていただいた皆様・激励いただいた皆様に紙面上ではありますが心からのお礼を申し上げます。  本当に本当にありがとうございました。

<スタッフより…振り返って>
私は、これまでに障害者仲間の人たちの様々な課題に関わってきました。もちろん、今の委託事業を受ける前からです。そんな中で、昔も今も変わらないことは、制度や法、または社会常識といわれるものが、通用しない・当てはまらない・そんなもので解決しないことの多い障害者の問題や課題が存在していることを感じさせられます。
 そんな私は、障害者運動として取り組んできたこれまでの様々な問題や課題には、しんどいものも多くありましたが、一人の人間として障害者というだけで不合理で差別的な扱いを受けるならば、許されないことだと思います。

 ましてや自分自身が望んで片親や両親がいない状態になったわけでもないのに、一般的には表面的なものしかみられません。

 私自身、一人暮らしを始めたのは32年前(運動をする前から)で、歩くことが大変だったので会社に住み込みで働き始めました。そんな住み込みが将来的な不安を感じるようになり、近所の数人のおばちゃんに相談したら、おばちゃんたちがちょっと手を貸してくれてアパート暮らしが始まりました。父は一人暮らしに反対ばかりしていましたが、他人であるおばちゃんらによって私の人生も変わることが出来ました。今でも、あのおばちゃんたちがいなかったら、私はどのような暮らしをしていたろうと考えてしまいます。

 私は、運動だとか、事業だという前に一人の障害者として、どう向かい合えるのか、どう生きていけるのかを考え行動していきたい。「ともに生きる」ということを実践すること、それが私にとっての「ともに生きる」なのではないだろうか。
平井 誠一



 私にとって、この1年間は初めてのことばかりでとにかく必死でした。はっきり言ってどうしたらいいのか全然分からない中でやってきたように思います。それでも、なぜやってこれたのか。それは、Aさんの『手術をしてもう一度職場復帰をしたい。施設には戻りたくない』という揺るぎない思いが痛いほどよく分かったからです。『施設を出る』という行為がどんなに大きい決断なのかということ。施設にいても地域で暮らしても、楽なこと・しんどいことはあります。どっちがいいとか悪いとかじゃなく、自分はどこで生きたいのか、ということだと思うのです。そして、私は地域を選んできました。それゆえのよかったこと、しんどさもたくさんありました。本気で死にたい!と思ったことだってありました。でも、施設には戻りたくはなかったのです。そんな経験をしてきているからこそ、Aさんの気持ちが痛いほど分かりました。何とかしたい!って、ただそう思ったのです。

 また、二次障害というものと私自身が初めてちゃんと向き合えたと思います。今まで、『脳性麻痺である以上、二次障害から避けて通れない』と頭の中では分かっていました。私も、車の運転をしています。運転中は、結構緊張もしています。指先がピリピリくることもあります。『これが二次障害の前兆なんだろうな』とは思ってはいたけれど、正直私にはまだまだ関係のない話し、と思っていたところがありました。

 しかし、今回Aさんと関わってくる中で二次障害の進行の過程をまじまじと見せられました。『見ていたくない、逃げたい!』という気持ちと『この現実と向かい合わなければ』という2人の自分との闘いがありました。
 これは、本当に他人事ではない!もし、私が同じ立場になったとき、自分だったら何を思い、どうするのだろうということもあり、自分のこととして関わっていた部分が多くあったと思います。また、身内がいないということ。今、私には両親がいますが、もし自分にそのような人がいなくなった時、私は誰に頼むのだろう。それだけの関係性・信頼関係がある人はいるだろうか、と自分の人間関係を振り返ることにもなりました。

 あと、自分のことではないことで他人に頭を下げること、遺言書作成に関わること、生死を真近に感じること…。普通の26歳でこんなことしてる人っていないよな・・・・どんどん友人とのあいだに距離間を感じてしまう、と虚しさを感じることも正直ありました。

 『よくやるよね。』『人のこともいいけど、自分のことに目をむけたら。』と色々言われたりもしました。
 確かに、自分のことはかなり疎かでした。ご飯もお惣菜。掃除も全然できない。私の全てを、このことに捧げていたと言っても過言ではないかもしれません。
 今は、関わることができてよかったと思っていますし、辛かったことは全部飛んでいきました。

 最後に、今回のことを通して
  『人と向かい合い、その人が抱える問題とも向かい合い、その人が望む生活ができる方法をともに考え、ともに変えていく。』
 私の、これからのキーワードみたいなものが見えてきたような気がします。

浅木 裕美



 人間、何年生きていても知らないことがたくさんあるし、知らない人がたくさんいます。今回のAさんももちろん知らない人でした。
 Aさんと関わって半年の間、1人の存在からの繋がりで何人の人と知り合いになれただろうか?いろんな分野の人たちがAさんの思いを叶えたいが為にひとつになり、お互いのパワーをそつなく発揮して共に助け合う。障害者、健常者ではなく、1人の人間として思いやりのある心を持ち、共に成長していく姿をまじまじと見ることができました。
 希薄な社会にちよっとした思いやりのある声がけをすることで、Aさんのような繋がりの輪がどんどん広がって行くように感じられます。Aさん、いろんなことを学ばさせてくれてありがとう。そして、たくさんの知り合いの財産をいただき感謝します。

大石はる美


次号では、Aさんからの投稿と主治医からのコメントを予定しています。