センターとしての総括:③連携とネットワークについて
(1)各関係者間がもつ情報の共有化と連携について
<たくさんの方が関わるからこその課題>
Aさんを支援するにあたり、たくさんの関係機関の方々に関わっていただくことができました。
となると、それゆえの課題があります。それは、
『誰と誰がどのような情報を共有し、どことどこがネットワークを作っていく必要があるのか』
についてです。
まず、私たち自身の役割として考えたことは、
『関係者をどうつないでいくのか。今、何が必要なのか。そのためにはどの関係者に集まってもらうと良いのか。さらには、どのような情報が必要なのか。』ということでした。
決して、私たちが方針を出すのではなく、Aさんと話し合いながらケアプランを作ります。そのプランをケア会議で提案し、それぞれの立場から意見が出されます。介助の時の注意や現段階でのAさんの状況の情報交換をし、Aさん自身にどうしたいのかを表明してもらい、関係者が全員で共有するのです。
こうした情報や意見の共有が、Aさんの退院後に意味を成すことになったのです。
それは、Aさんが退院して2日後のことでした。Aさんから電話があり、
“ベットから落ちたから今すぐ来てほしい!”というものでした。
<Aさんの電話があってからAさん宅に行くまでのやり取り>
私は、身ひとつで事務所を飛び出しました。私の脳裏では、最悪のことまで想定していました。偶然センターに来ていた人に車の運転を頼み、またもうひとりの方も“私も一緒に行きます!”ということで急ぎました。
まず、私が最初に考えたことは
私よりも1分でも早くAさん宅にいけそうな人がいるかどうか
でした。その時に、ヘルパー事業所さんだっ!と思ったのです。すぐに電話をかけました。
“Aさんから、自宅のベットから落ちたと連絡を受けたんです。私も向かっていますが、そちらからも誰か行けないでしょうか?”
“誰かいけるように何とかしてみます!!”
ほかに何かできることはないのか??と考えました。
病院へ行かないといけない場合、主治医にすぐ受け入れてもらえるかだ!!
と思った私は、主治医に連絡をとりました。
“先生!!Aさんからベットから落ちたと連絡を受けたんですが。”
”Aさん宅に着いたらもう一度連絡してくれ!!”
Aさん宅に着きました。
…あっ!ヘルパー事業所さんの車がある!!…でも、まだ安心できない。急いで家の中へと入りました。Aさんはベットの上で寝ていました。
そして、すぐに主治医に電話しました。
“今の状態はどうだ?”
・・・私はかなり気が動転していました。そんな私を察したのか、主治医は症状の確認を質問形式で聞いてきました。
意識はあるか?痛いと言っている所は?手足は動くか?・・・・・そして、
大丈夫だ!という言葉が返ってきました。
やった-----------!!
この頃には、ヘルパー事業所の他のヘルパーさんも続々いらっしゃっていました。結局この日は、いつもよりヘルパーさんが入る時間を早めていただくことができ、何かあったらすぐに連絡しましょう、ということで事務所に戻りました。
(2)必要に応じたネットワークづくり
<緊急入院、手術などAさんとの1年間>
緊急入院(X病院)から始まり、1回目の手術転院(Y病院)、転院(X病院)、一時退院、2回目の手術(Z病院【県外】)、転院(X病院)、そして退院というめまぐるしい1年間でした。
これに伴い、下記のようにいろいろな課題がありました。
当然、私たちのセンターだけでは担い切れませんでした。そのため、必要に応じて様々なネットワークを作っていき、または作ってもらいながら乗り切ってきました。
<具体的課題>
①入院に伴う洗濯
個人の方と支援センター2カ所、作業所の個人で行ってきました。(県外の病院から、同意人になって頂いた人にも加わってもらえました。)県外の病院は、Aさんのサッカー仲間も加わって頂けることになり、また友人の知り合いの方も加わって頂けました。人のつながりがすごくうれしく頼もしく感じました。センターの役割としては、洗濯当番のローテーションを組むことでした。
②入院中に必要なものの買い物
看護士さんから「ラブレターだよ」と心電図の紙が渡され、裏には「おむつ・・・」と必要なものが書いてありました。病院で必要な買い物は、当センターが主に行い、必要に応じて洗濯当番に行った人にして頂きました。
③アパートの管理及び様々な支払い
県外の病院に行く前までは、当センターがAさんの了解を得ながら、その都度支払い等を代行してきました。県外の病院へ行って以降、危険な手術だったということもあってある程度の額お金を預からせて頂いて、Aさんの了解を得ながら支払いを行いました。
④退院後の住まいをどうするのか
緊急入院前は、民間のアパートに入居されていたのですが、そのアパートの階段で一度転倒され、病院に運ばれたことがあったことと、車椅子の生活になっているので他に移った方がよいのではということで、市営住宅の障害者用に応募することにしました。抽選会があり、Aさんに外出許可を取ってもらい、見事入居が決まりました。
Aさん自身、最初はあまり乗り気ではなかったようです。それは、施設から出て初めて生活したアパートだったからだと思います。やっとの思いで見つけたアパートだったことや、思い出の強いアパートだったこと。また、当センターから近かったことなどがあるのかなと思います。
一時退院の時には、新しい住まいである市営住宅で生活をして、近くの銭湯にも行っていました。彼の思いは、どうだったのか彼自身が語ってくれると思いますが・・・。
⑤入院中の他病院の診療に誰がやるのか
入院していた病院には、当時MRIがなかったので何度か他の病院に行きました。また、県外の病院で手術する予定だったので、そのための診察にも行きました。当然、このための送迎や診察中の介助さらにはMRIを撮るための介助は他の送迎サービス業者や支援費事業所ではやって頂けないので当センターでいろんな人たちにお願いをしたりスタッフが行ったりしてきました。
年金生活者にとって、これら一連の経費は大きな出費になることは言うまでもない。今後、様々な法的縛りがかけられてくると支援もしづらくなるだろう。特に、来年4月からの道路運送法の改正は、こうした支援の妨げにならないだろうか。
(3)まとめ
様々な人たち、組織(病院、支援費事業所、支援事業)等が必要に応じてネットワークを作りながら、情報を交わし1人のAさんの入院・手術・一時退院等を乗り切り、そして退院後の地域生活を支えるための体制づくりまできました。これは、Aさんの「地域で住んで、もう一度働きたい」という思いが強くあったことと、それを支える側の熱い思いがあったからだと思います。
関係者1人1人が、支えよう、関わろうという思いがないと出来ないことです。
『人が人を変えていくこと』を身を持って知ることの出来る取り組みでした。決して、制度や法律では行うことのできないネットワークだったといえます。